震災から5年。本当に多くの人の人生があの日を境に変わりました
震災から5年。本当に多くの人の人生があの日を境に変わりました。家族や友人たちの人生に影響を与え、そして、ネットでしかしらない人たち、かつての仕事仲間、ずいぶん連絡をとってなかった知人まで、語りだすと心に深い傷を負っている人もすくなくありません。時がとまったようだ、、、そんなことを口にする親しい友人もいました。
時が止まる。そんな表現でしか、語れないほどのインパクトがあの東北地方太平洋沖地震と、福島第一原子力発電所の苛酷事故にはありました。
発生時刻 2011年03月11日 14時46分ごろ-震度7
— greenpost (@greenpost) March 11, 2011
地域:宮城県北部 東京 震度3 地震 - 毎日jp http://bit.ly/hdV90i コメ-専門サイト、携帯がつぶれるなかで、テキストベースの地震情報がたより
震災から5年。ようやく動きだせる。そんな時節を迎える人々もいます。上のツィートは、私の直後のツィートです。Twilogで3月11日の前後のツィートをみると、 17:13でその日は終わっています。実際には、それから夜中までが大変でした。
●2011年03月12日(土)16 tweets
翌日は、いろいろと連絡。福一の情報もすこしづつ入っています。しかし、昨日のようには、覚えていません。福一で何か大変なことが起こっているのはわかっていました。
●2011年03月13日(日) 6 tweets
情報収集に追われていました。こんなツィートが残っています。
本日は、家族、知り合いとの情報共有とミーティング。さらには明日からの電源対策などの対応に追われました。そして、常に拡大する被害、原発事故の情報に触れ、本日接したすべての人の中に、悲しみと、絶望と、そして怒りを見ることになりました。現地とはことなる、悲しみ。あまりにも大きな損失、、
— greenpost (@greenpost) March 13, 2011
●2011年03月14日(月)38 tweets
東京の国分寺で暮らす私にとっては、4日でだいぶ落ち着きを取り戻しています。福一の状況を一番に気にする。そんな状況も、福島、宮城、岩手とこの年の10月に被災地を回った時の被害の大きさを目にするまで、実感として理解していませんでした。
●2011年03月15日(火)44 tweets
福島第一原子力発電所の状況については、国内外の認識は、まだ下のようなものでした。メルトダウンという認識はなかったのです。
福島の原発事故はレベル5か6の可能性、米スリーマイル島事故に匹敵か=仏当局-----Reuters http://bit.ly/fMhgYi #crises311 #jishin #nuclearjapan #energyjapan
— greenpost (@greenpost) March 14, 2011
●2011年03月16日(水)48 tweets
知り合いの防災ボランティア、医療関係者などが動きだしている。福島の事故がひどいという認識が広がる中で、すでに現地入りしている友人もいた。事故は、レベル7という懸念が広がる。
東日本大震災:福島第1原発「レベル7」も 米研究所指摘 http://bit.ly/h1k5o4
— 毎日新聞ニュース速報 (@mainichijpnews) March 16, 2011
●2011年03月17日(木)43 tweets
情報の共有化などの試みが始まってきた。この中には、いまでも貴重な情報を発信しているところがあります。
・地震・関連情報 ブックマーク集 / twitter & テキストベース情報-----しなやかな技術研究会、2011/03/14
・SAVEJAPAN! PROJECT セーブジャパン! プロジェクト 東日本大地震エリア別救済支援情報サイト-----しなやかな技術研究会、2011/03/17
●2011年03月18日(金)36 tweets
これが、地震、原発事故から1週間の間の記録となって、今でも鮮明に思い出すシーンがいくつもあります。東京国分寺あたりでは、計画停電にそなえて、また原発事故への対応の長期化も意識して、物資を整備する動きが広くみられました。人々は、必至に生活を立て直す努力をしていました。そうした顔を思い出します。
東北の被災者の状況には比べものにもなりませんが、地震の被害の少ない地域にまで、これだけ広域に危機が広がったのは、福島原子力発電所の苛酷事故のせいです。
これが、今に至る、そして将来に続く大きな危機として、私たちの前にあります。
2016/3/11 のしなかな技術研究会のクリッピング
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